19年で鉄道を走らせた国 — 明治の東京に残る近代化の痕跡 | Rotem Tomita & Co. ブログ | Rotem Tomita & Co.新橋駅のそばにある小さな建物
JR新橋駅の汐留口を出て、ゆりかもめの方向に2〜3分歩くと、煉瓦造りの小さな建物がある。旧新橋停車場だ。復元されたこの建物は、日本で最初の鉄道の始発駅があった場所に建っている。
1872年(明治5年)10月14日、新橋〜横浜間で日本初の鉄道が開業した。距離は約29km。所要時間は約53分。
ペリーの黒船が浦賀沖に現れたのが1853年だ。蒸気機関で動く船を見て腰を抜かした国が、わずか19年後には自前の鉄道を走らせていた。
この記事は、明治維新(1868年)から明治時代の終わり(1912年)までの44年間に、日本がどう変わったかを書く。「250年の鎖国、そして黒船」で書いた開国と明治維新の、その先の話だ。舞台は東京。旧新橋停車場、銀座、東京駅、明治神宮。これらの場所を歩くと、近代化の痕跡が今も見える。
岩倉使節団——政府の半分が国を空けた
107人、1年10ヶ月の旅
明治政府は、成立からわずか3年後に、驚くべき決断をした。
1871年12月、政府の主要メンバーを含む107人の使節団がアメリカに向けて横浜港を出発した。団長は右大臣(政府のナンバー2)の岩倉具視。副使は大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳。いずれも明治政府の中枢だ。
公式の目的は、幕末に結ばされた不平等条約の改正交渉だった。しかし条約改正は早々に見込みがないとわかり、使節団の活動は視察に切り替わった。
アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、イタリア、スイス、オランダ、ベルギー、デンマーク、スウェーデン、オーストリア。12カ国を回り、帰国は1873年9月。1年10ヶ月に及んだ。
政府の中枢が1年10ヶ月も国を空けた。生まれたばかりの国家で、だ。留守政府は西郷隆盛や板垣退助らが預かったが、使節団の不在中に征韓論(朝鮮に武力で開国を迫る案)が浮上し、帰国した岩倉・大久保と西郷が対立する明治六年の政変に発展した。
何を見て、何を学んだか
使節団が最も衝撃を受けたのは、ヨーロッパの産業力だった。
記録係の久米邦武が編纂した『米欧回覧実記』には、工場、鉄道、港湾、病院、学校、裁判所、議会、兵器廠と、訪問先の詳細な記録が残っている。単なる見物記ではない。工場の動力源は何か、鉄の精錬はどう行われているか、議会の運営規則はどうなっているかまで、実務的な観察に徹している。
大久保利通はイギリスの産業革命の成果に衝撃を受け、帰国後に内務省を創設して殖産興業政策を推進した。伊藤博文はプロイセン(ドイツ)の憲法制度に注目し、後の大日本帝国憲法の起草に影響を受けた。
ここで重要なのは、使節団が西洋文明の表面だけでなく裏側も見たことだ。イギリスの工場で働く労働者の劣悪な環境、都市の貧困、植民地支配の実態。西洋の先進性を認めつつも、すべてを模倣すべきではないという認識は、帰国後の政策に影響を与えた。
文明開化と銀座——煉瓦街の実験
銀座煉瓦街
明治初期を象徴する言葉が文明開化だ。西洋式の制度、技術、生活様式を急速に取り入れた動きをこう呼んだ。
その象徴が銀座だ。
1872年2月、銀座一帯を焼き尽くす大火が起きた。政府はこれを機に、木造の街並みを煉瓦造りに建て替えることを決めた。設計を担当したのは、お雇い外国人の一人、イギリス人建築家トーマス・ウォートルスだ。
完成した銀座煉瓦街は、2階建ての煉瓦建築が整然と並び、街路樹が植えられ、ガス灯が灯った。東京で初めてのガス灯は1874年にここに設置された(日本初のガス灯は1872年、横浜の馬車道に灯っている)。アーケード付きの歩道まであった。
しかしこの煉瓦街は、必ずしも成功したとは言えない。日本の高温多湿の気候に煉瓦建築は合わなかった。湿気がこもり、住みにくいと不評だった。家賃が高く、空き家も多かった。見た目は近代的だが、住む人の暮らしとの間にズレがあった。
文明開化には、こうした表面的な西洋化とその齟齬が常に伴った。散切り頭(ちょんまげを切った西洋風の髪型)、洋服、牛鍋(すき焼きの原型)。目に見える変化は速かったが、社会の中身が変わるにはもっと時間がかかった。
銀座のその後
煉瓦街自体は1923年の関東大震災でほぼ壊滅し、現在の銀座に当時の建物は残っていない。しかし銀座が日本で最もモダンな商業地であるというイメージは、この時代に始まった。現在の高級ブティックが並ぶ銀座の風景は、明治の煉瓦街の延長線上にある。
制度の近代化——44年間に何が変わったか
明治政府が変えたのは、見た目だけではない。国の骨格を作り替えた。
義務教育(1872年〜)
1872年の学制発布で、身分・性別に関わらず、すべての子供に教育を受けさせることが定められた。江戸時代にも寺子屋(民間の初等教育機関)があり、識字率は同時代の世界の中でも高かったが、制度としての義務教育はここから始まった。
ただし当初の就学率は低かった。学費がかかること、子供が労働力として必要だったことが理由だ。特に女子の就学率は男子より大幅に低かった。就学率が90%を超えるのは1900年代に入ってからだ。
徴兵制(1873年)
1873年の徴兵令で、士族(旧武士階級)だけでなく、すべての成年男子に兵役の義務が課された。これは「足軽の子が天下を取った」で書いた秀吉の刀狩りと、ある意味で正反対の政策だ。秀吉は農民から武器を取り上げて武士と農民を分離した。明治政府は全国民に武器を持たせて、武士という特権階級を廃止した。
旧武士階級にとっては、戦うことが自分たちの存在意義だった。それが全国民の義務になったことで、武士は特権を失った。各地で士族の反乱が起きた。最大のものが1877年の西南戦争で、西郷隆盛が率いる士族軍を、徴兵制で集められた農民兵が破った。
鉄道(1872年〜)
冒頭で書いた新橋〜横浜間の鉄道は、イギリスの技術者エドモンド・モレルの指導で建設された。モレルは開業を待たずに1871年に30歳で病死している。横浜外国人墓地に墓がある。
1889年には東海道本線(東京〜神戸)が全通。民間の鉄道会社も次々と設立された。鉄道は単なる交通手段ではなく、中央政府の命令を全国に届け、軍隊を迅速に移動させるインフラでもあった。
憲法(1889年)
1889年2月11日、大日本帝国憲法が発布された。オスマン帝国のミドハト憲法(1876年)が先行するが、わずか2年で停止されたため、継続的に機能したアジア初の近代的な憲法と言える。
起草の中心は伊藤博文。岩倉使節団での経験を踏まえ、プロイセン(ドイツ)の憲法をモデルにした。なぜイギリスやフランスではなくプロイセンだったのか。イギリスは議会の力が強すぎ、フランスは革命で王が処刑された国だ。天皇の権威を保ちながら近代的な政治体制を作るには、国王が強い権限を持つプロイセン型が都合がよかった。
憲法は天皇を「神聖にして侵すべからず」と定め、統治権は天皇にあるとした。議会(帝国議会)は設置されたが、天皇の権限を制約するものではなかった。「東京の中心にある「空白」」で書いた権威と権力の分離の構造は、明治憲法のもとでも変わらなかった。天皇は統治権を持つと書かれていたが、実際に政治を動かしたのは藩閥(薩摩・長州出身の政治家たち)だ。
建築に見る近代化——お雇い外国人から日本人建築家へ
ジョサイア・コンドル
明治政府は、あらゆる分野で外国人専門家を雇い入れた。「お雇い外国人」と呼ばれる人々で、最盛期には数百人が日本で働いていた。
建築分野で最も影響力があったのが、イギリス人建築家ジョサイア・コンドルだ。1877年に24歳で来日し、工部大学校(現在の東京大学工学部)で建築学を教えた。
コンドルが設計した建物には、鹿鳴館(1883年、外国人接待用の社交場。現存せず)、ニコライ堂(1891年、御茶ノ水。現存)、旧岩崎邸庭園(1896年、上野。現存、重要文化財)などがある。
コンドルが重要なのは、建物を残したことだけではない。彼が育てた日本人の弟子たちが、次の時代を作った。
辰野金吾と東京駅
コンドルの弟子のうち、最も知られているのが辰野金吾だ。
辰野は佐賀県唐津の出身で、工部大学校の第一期生。コンドルのもとで学んだ後、イギリスに3年間留学し、帰国後に工部大学校(後の東京帝国大学工科大学)の教授となった。
辰野の代表作が東京駅丸の内駅舎(1914年竣工)だ。赤煉瓦と白い花崗岩のコントラスト、南北のドーム、335メートルの長大なファサード。辰野はイギリスのクイーン・アン様式を基調にしながら、独自のアレンジを加えた。
もう一つの代表作が日本銀行本店本館(1896年竣工)だ。ベルギー国立銀行をモデルにしたネオ・バロック様式で、上空から見ると円の字に見えるという話がある(実際には設計段階でそこまで意図されていたかは定かでない)。
コンドルからの辰野、という流れは、明治の近代化の典型的なパターンだ。最初は外国人に教わり、次の世代で日本人が自力でやれるようになる。学ぶ→吸収する→自分のものにする。このサイクルが、鉄道、軍事、法律、医学、建築と、あらゆる分野で同時に進行した。
明治神宮——近代化を主導した天皇
明治天皇と近代化
1912年7月30日、明治天皇が崩御した。在位45年。この間に日本は、封建的な武士の国から近代国家に変わった。
明治天皇がどこまで自らの意思で近代化を主導したかは、歴史家の間でも議論がある。維新の初期、天皇は15歳の少年だった。実際の政策決定は、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文といった薩長出身の政治家たちが行った。
しかし天皇は近代化の象徴としての役割を十分に果たした。洋装に切り替え、断髪し、肉食を始め、西洋式の宮中儀式を採用した。陸海軍の統帥権を持ち、大本営の会議に出席した。日清戦争(1894〜95年)では広島の大本営に移って戦争を指揮する姿勢を見せた。
「東京の中心にある「空白」」で書いたように、天皇は権威の象徴であり続けた。ただし明治の天皇像は、平安時代の雲の上の存在とも江戸時代の京都の隠居とも異なる。国民国家の元首という新しい天皇像を作ったのが明治時代だ。
明治神宮の建設
明治天皇の崩御後、国民の間から天皇を祀る神社を建設する運動が起きた。政府はこれを受けて、1920年に明治神宮を創建した。
場所は、元は加藤清正(豊臣秀吉の家臣、熊本城の築城者)の下屋敷があり、その後井伊家の庭園となっていた土地だ。現在の約70万平方メートルの敷地に、全国から寄贈された約10万本の樹木が植えられた。100年後に自然林になることを見越した計画植樹で、実際に現在の明治神宮の杜は、ほぼ人工林でありながら自然の森のように見える。
明治神宮は1945年の空襲で社殿が焼失したが、1958年に復興された。初詣の参拝者数は日本一で、毎年約300万人が訪れる。
訪問ガイド——明治の近代化を歩く
旧新橋停車場
日本の鉄道の始まりの場所。現在の建物は、開業時の駅舎の外観を忠実に再現した復元建築(2003年開業)だ。
建物の地下には、開業当時のプラットフォームの石積みと線路の遺構が実際に残っており、ガラス越しに見ることができる。内部の展示室では、鉄道の歴史に関する企画展が無料で見られる。
新橋駅から徒歩5分。銀座からも歩ける距離だ。規模は小さいが、鉄道でここから日本の近代が始まったと思うと、見え方が変わる。
銀座
明治の煉瓦街の面影は残っていないが、銀座が日本で最もモダンな場所であり続けているのは、文明開化から始まった歴史の延長だ。
銀座四丁目の交差点に立つと、和光ビルの時計塔が見える。この場所には江戸時代に時の鐘があり、明治には時計台が建てられた。時間を知らせる場所としての連続性がある。
東京駅丸の内駅舎
第二次世界大戦の空襲で南北のドームが焼失し、戦後は応急修復されて3階建てから2階建てに縮小されていた。2012年に創建時の3階建て・ドーム付きの姿に復原された。
復原にあたっては、創建当時の工法と素材の調査が徹底して行われた。駅舎内部にある東京ステーションギャラリーでは、辰野が使った赤煉瓦の壁がそのまま展示室の壁として露出しており、100年前の建築を直接見ることができる。
丸の内側から駅舎を見ると、その向こうに皇居の森が見える。東京駅は皇居の正面に位置しており、この配置は意図的なものだ。天皇の住まいと、国の玄関口。東京駅は単なる交通インフラではなく、近代国家のシンボルとして設計された。
日本銀行本店本館
東京駅から徒歩10分。辰野金吾のもう一つの代表作。1896年竣工。
ネオ・バロック様式の重厚な石造建築で、国の重要文化財に指定されている。内部は事前予約制のガイドツアーで見学できる。
明治神宮
原宿駅を出ると、巨大な鳥居が見える。表参道を歩いて本殿まで約10分。都心のど真ん中にあるとは思えない深い森の中を歩く。
先に書いたように、この森は100年前に計画的に作られたものだ。針葉樹から広葉樹への遷移を見越した植樹計画で、現在はシイやカシを中心とした常緑広葉樹林になっている。
本殿で参拝した後、南参道から宝物殿の方に足を延ばすと、明治天皇の遺品や肖像画を見ることができる。
おわりに
明治の44年間で、日本は変わった。鉄道が走り、煉瓦の建物が建ち、憲法ができ、議会が開かれ、義務教育が始まった。
だが、変わったと一言で済ませると、何かを見落とす。
新橋の駅は外国人技師が作り、銀座の煉瓦街も外国人が設計した。しかし東京駅を設計した辰野金吾は日本人だ。その間、わずか40年。外国人に教わり、外国に留学し、帰国して自分で作る。このサイクルが、明治の近代化の実態だった。
旧新橋停車場から東京駅まで歩くと、直線距離で約2km。この2kmの間に、外国人が作った始まりから日本人が自力で作った到達点までの40年が凝縮されている。
📍 実用情報
- 料金:無料
- 営業時間:10:00〜17:00(入館は16:45まで)
- 休館日:月曜(祝日の場合は翌火曜)、年末年始、展示替え期間
- 所要時間:20〜30分
- アクセス:JR新橋駅 汐留口から徒歩5分 / 都営大江戸線 汐留駅から徒歩3分
- 料金:外観見学は自由
- 東京ステーションギャラリー:一般 1,300円、高校・大学生 1,100円、中学生以下 無料(展覧会により異なる)
- 営業時間:10:00〜18:00(金曜は20:00まで。入館は閉館30分前まで)
- 休館日:月曜(祝日の場合は翌平日)、年末年始、展示替え期間
- 所要時間:外観のみ15分、ギャラリー含め60〜90分
- アクセス:JR東京駅 丸の内口すぐ
- 料金:無料(事前予約制ガイドツアー、日本銀行のウェブサイトから申込)
- ツアー時間:約60分
- 休業日:土日祝、年末年始
- アクセス:東京メトロ半蔵門線 三越前駅(B1出口)から徒歩1分
- 料金:参拝無料
- 明治神宮ミュージアム:一般 1,000円、高校生以下 900円、小学生未満 無料
- 参拝時間:日の出に開門、日の入りに閉門(月により異なる。概ね5:00〜6:40開門、16:00〜18:30閉門)
- 所要時間:参拝のみ40〜60分、宝物殿・ミュージアム含め90〜120分
- アクセス:JR山手線 原宿駅から徒歩1分 / 東京メトロ副都心線 明治神宮前駅から徒歩1分
- 中央通り(銀座のメインストリート)は土日祝の12:00〜17:00に歩行者天国になる(季節により〜18:00)
- 和光ビル(銀座四丁目交差点):外観は常時見学可。1階は高級時計店
- アクセス:東京メトロ銀座線 銀座駅すぐ
- 旧新橋停車場→銀座:徒歩約10分
- 銀座→東京駅:徒歩約15分
- 東京駅→日本銀行本店:徒歩約10分
- 東京駅→明治神宮(原宿):JR山手線で約25分
- 旧岩崎邸庭園(上野。ジョサイア・コンドル設計の洋館。重要文化財。大人400円)
- ニコライ堂(御茶ノ水。コンドル設計のロシア正教の聖堂。拝観料300円)
- 丸の内のKITTEビル(旧東京中央郵便局。屋上テラスから東京駅の全景が見える。「東京の中心にある「空白」」参照)
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