大阪城の天守閣に立つと
大阪城の天守閣の最上階に立つと、大阪の街が360度見渡せる。北にはビジネス街の梅田、南には通天閣がかすかに見え、西には大阪湾の海が光っている。
この城を建てた男は、最下層の出身だった。
名前は豊臣秀吉。日本史上、最も劇的な人生を歩んだ人物だ。身分制度がすべてだった時代に、どこの誰かもわからない男が戦国大名になり、天下を統一し、天皇から関白の位を授かり、太閤として日本を支配した。
ただし現在の大阪城は、秀吉が建てた城そのものではない。秀吉の大阪城は1615年の大坂夏の陣で徳川軍によって焼き落とされ、その上に徳川幕府が新しい城を築いた。さらにその城も落雷で天守を失い、現在の天守閣は1931年に鉄筋コンクリートで復元されたものだ。つまり、ここには三つの時代の大阪城が重なっている。
秀吉の城は地下に埋もれているが、石垣の一部は発掘調査で確認されている。目に見える城は秀吉のものではないが、この場所が持つ意味、身分を超えた男の野望と、それを滅ぼした権力の交代は、400年経っても変わらない。
最下層から天下へ
出自の謎
秀吉は1537年頃、尾張国(現在の愛知県西部)に生まれた。頃と書くのは、正確な生年すらはっきりしないからだ。父は足軽(最下級の兵士)だったとも、農民だったとも言われる。母は後に大政所と呼ばれるが、出自は不明だ。
後に天下人になった秀吉は自らの出自を華やかに飾ろうとしたが、同時代の史料からは、彼が本当にどこの誰かもわからない出身だったことがうかがえる。
信長との出会い
秀吉が歴史の表舞台に出てくるのは、織田信長に仕えてからだ。
信長は尾張(現在の愛知県西部)から勢力を拡大し、当時最も天下統一に近い大名だった。秀吉はその信長の下で、雑用係から始まり、合戦の兵站、城の建設、外交交渉と、ありとあらゆる仕事をこなして出世していった。
秀吉の軍事的才能は、1582年の中国大返しで頂点に達する。信長が本能寺の変で明智光秀に殺されたとき、秀吉は中国地方(現在の岡山県あたり)で毛利氏と対峙していた。信長の死を知ると、秀吉は驚異的な速さで和議をまとめ、約200kmの距離をわずか8日で軍勢ごと引き返し、光秀を山崎の戦いで破った。
この速さが秀吉の天下取りを決定づけた。他の有力武将が状況を見定めている間に、秀吉だけが動いた。待つ男・家康との対比が際立つ(「"神"になった将軍」参照)。
天下統一——そして身分社会の再構築
天下人への道
山崎の戦い(1582年)の後、秀吉は信長の後継者の地位を確立するために、政治と軍事の両面で動いた。信長の孫・三法師を後継者に担ぐことで大義名分を得て、信長の有力家臣・柴田勝家を賤ヶ岳の戦い(1583年)で破った。
1585年に関白(天皇に代わって政務を行う朝廷の最高権力者)に就任。1590年には小田原の北条氏を降伏させ、天下統一を完成した。足軽の子が、約30年かけて日本全土を手中に収めた。
刀狩り——革命家が革命を禁じる
秀吉が天下統一を進める中でやったことの一つが、刀狩り(1588年)だ。
