京都御所の何もなさ
京都御所を訪れて、多くの外国人観光客が戸惑う。ヴェルサイユ宮殿のような金ピカの装飾はない。紫禁城のような圧倒的なスケールもない。白い砂利の広場に、木造の建物がいくつか並んでいるだけだ。
「これが1000年以上、天皇が住んでいた場所?」
その反応は正しい。そして、その何もなさこそが、日本の権力の本質を映している。
京都御所には、天皇が住む場所に必要なものがほとんどない。軍隊の駐屯地もなければ、金庫室もない。あるのは、儀式を行う紫宸殿、日常の政務を行う清涼殿、そして庭だ。ここは統治の中枢ではなく、儀式の舞台だった。
なぜそうなったのか。その答えが、平安時代400年の歴史にある。
なぜ京都に遷都したのか
794年、桓武天皇が新しい都を造った。平安京——現在の京都だ。
それ以前の都は奈良(平城京)にあった。なぜ桓武天皇は遷都したのか。最大の理由は、奈良の仏教勢力があまりに強くなりすぎたからだ。
奈良時代、寺院は巨大な政治力を持っていた。東大寺や興福寺の僧侶たちは、土地を所有し、武装した僧兵を従え、政治に直接介入した。道鏡という僧侶は、称徳天皇の寵愛を受けて皇位を窺うところまでいった(769年の宇佐八幡宮神託事件)。
桓武天皇は、この宗教勢力の影響圏から物理的に脱出するために、784年にまず長岡京(現在の京都府向日市・長岡京市付近)に遷都した。しかし、造営責任者の藤原種継が暗殺され、関与を疑われた桓武の弟・早良親王が無実を訴えながら絶食死した。その後、疫病や洪水が相次ぎ、早良親王の祟りとされた。桓武はわずか10年で長岡京を捨て、改めて平安京を建てた。奈良の大寺院には新都への移転を許さなかった。
藤原氏——王の背後の王
天皇と結婚するビジネス
平安京が完成してから約200年間、日本の政治を動かしたのは天皇ではなく藤原氏だった。
藤原氏の戦略はシンプルだ。娘を天皇に嫁がせ、生まれた子供を次の天皇にし、自分はその天皇の外祖父として政治を動かす。これが摂関政治だ。
摂政は幼い天皇に代わって政治を行う職、関白は成人した天皇を補佐する職だが、どちらも藤原氏の長が独占した。天皇は形式的な存在となり、藤原氏の摂政・関白が実権を握った。
この仕組みがうまくいったのは、藤原氏が天皇を排除しなかったからだ。天皇を殺して自分が王になるのではなく、天皇の外戚として権力を行使した。天皇は存在し続ける。ただし、その天皇は自分の孫だ。
旧約聖書のヨセフの話に似ている。ヨセフはエジプトのファラオに仕え、ファラオに次ぐ権力を持ったが、決して自らファラオにはならなかった。ファラオの権威の下で実務を仕切った。藤原氏も同じだ。天皇の権威を借りて、実権を行使した。
藤原道長——「この世をば」
藤原氏の権力が頂点に達したのが、藤原道長(966〜1028年)の時代だ。
道長は三人の娘を三人の天皇に嫁がせ、三人の天皇の外祖父になった。1018年、彼は有名な歌を詠んだ。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
(この世は自分のものだと思う。満月に欠けるところがないように)
